芥川龍之介
发布时间:2026-09-13 | 浏览:1
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芥川 龍之介 (あくたがわ りゅうのすけ、 1892年 〈 明治 25年〉 3月1日 - 1927年 〈 昭和 2年〉 7月24日 )は、 日本 の 小説家 。号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、 俳号 は我鬼(がき)。 東京府 東京市 京橋区 (現: 東京都 中央区 )出身。
1892年(明治25年)、 東京市 京橋区 入船町8丁目(現: 東京都 中央区 明石町 )に 牛乳 製造販売業を営む新原敏三、フクの長男として生まれる [ 1 ] 。 出生 時刻 については資料がないため不明である。 戸籍 上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家である芥川家や 府立三中 、 一高 、 東京大学 関係の名簿類では「龍之助」になっている。芥川自身は「龍之助」の表記を嫌った。姉が2人いたが、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死している。
生後7か月ごろに母フクが精神に異常をきたしたため [ * 1 ] 、東京市 本所区 小泉町(現:東京都 墨田区 両国 )にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母のフキに養育される。11歳のときに母が亡くなる。翌年に伯父・芥川道章(フクの実兄)の 養子 となり、芥川姓を名乗ることになった。 旧家 の 士族 である芥川家は 江戸時代 、代々 徳川家 に仕えた奥坊主(御用部屋坊主)の家である。家中が芸術・演芸を愛好し、江戸の 文人 的趣味が残っていた。
1898年 (明治31年)、江東(こうとう) 尋常小学校 入学(芥川卒業後、「江東」の読みは「こうとう」から「えひがし」と読むようになる。現在の 墨田区立両国小学校 )。東京府立第三中学校を卒業の際に「多年成績優等者」の賞状を受け、 1910年 (明治43年)9月、 第一高等学校 第一部乙類英文科に入学 [ * 2 ] 。1910年(明治43年)に中学の成績優秀者は無試験入学が許可される制度が施行され、芥川はその選に入っていた。同期入学に 久米正雄 [ * 2 ] 、 松岡讓 [ * 2 ] 、 佐野文夫 [ * 2 ] 、 菊池寛 [ * 2 ] 、井川恭(のちの 恒藤恭 ) [ * 2 ] 、 土屋文明 [ * 2 ] 、 倉田百三 (第一部丙類独法・政治・独文科一年四之組)、 渋沢秀雄 (第一部丙類仏法・政治・仏文科一年五之組)、 矢内原忠雄 (第一部甲類英法・政治・経済・商科一年二之組)らがいた。2年生になり一高の 全寮主義 のため 寄宿寮 に入るが、芥川は順応することはなかったという。寮で同室となった井川は生涯の親友となる。井川は『第一高等学校一覧』(第一高等学校刊行)によると [ 2 ] 、1年から3年まで常に芥川の成績を上回っている [ * 3 ] 。 1913年 (大正2年)、一高第一部乙類を2番の成績で卒業(一高第一部乙類首席は井川恭)し、 東京帝国大学 文科大学英文学科へ進学。当時、同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。
東京帝大在学中の 1914年 (大正3年)2月、一高同期(クラスメイト)の菊池寛、久米正雄らとともに 同人誌 『 新思潮 』(第3次)を刊行。まず「 柳川隆之助 」(隆之介と書かれている当時の書籍も存在する)の筆名で アナトール・フランス の『バルタザアル』、 イエーツ の『春の心臓』の和訳を寄稿したあと、10月に『新思潮』が廃刊にいたるまでに同誌上に処女小説『老年』を発表。作家活動の始まりとなった。このころ、 青山女学院 英文科卒の吉田弥生 [ * 4 ] という女性と親しくなり、結婚を考えるが、芥川家の猛反対で断念する。 1915年 (大正4年)10月、代表作の1つとなる『羅生門』を「 芥川龍之介 」名で『帝国文学』に発表。
1916年 (大正5年)には第4次『新思潮』(メンバーは菊池、久米のほか松岡譲、 成瀬正一 ら5人)を発刊し、その創刊号に掲載した『 鼻 』が漱石に絶賛される。この年に東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業 [ * 5 ] 。卒論は「 ウィリアム・モリス 研究」。同年12月、 海軍機関学校 英語教官を長く勤めた 浅野和三郎 が 新宗教 「 大本 (当時は皇道大本)」に入信するため辞職する [ 3 ] 。そこで 畔柳芥舟 や 市河三喜 ら英文学者が、浅野の後任に芥川を推薦( 内田百閒 によれば夏目漱石の口添えがあったとも)、芥川は海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執った [ 4 ] [ * 6 ] 。そのかたわら創作に励み、翌年5月には初の短編集『羅生門』を刊行する。その後も短編作品を次々に発表し、11月には早くも第二短編集『煙草と悪魔』を発刊している。 なお、海軍機関学校の初任給が60円であったのに対し、当時の原稿料は1枚30銭から2円であった [ 5 ] 。
1918年 (大正7年)の秋、懇意にしていた 小島政二郎 (『 三田文学 』同人)と 澤木四方吉 (『 三田文学 』主幹で西洋美術史家)の斡旋で 慶應義塾大学文学部 への就職の話があり、 履歴書 まで出したが、実現をみなかった [ 6 ] 。 1919年 (大正8年)3月、海軍機関学校の教職を辞して 大阪毎日新聞社 に入社(新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない)、創作に専念する [ 7 ] 。ちなみに師の漱石も 1907年 (明治40年)、同じように 朝日新聞社 に入社している。
1919年 (大正8年) 3月12日 、友人の 山本喜誉司 の姉の娘、 塚本文 (父の 塚本善五郎 は 日露戦争 において 戦艦 「 初瀬 」 沈没時 に戦死 [ 8 ] )と 結婚 。菊池寛とともに大阪毎日の客外社員となり、 鎌倉 から東京府 北豊島郡 滝野川町 に戻る。同年5月には菊池とともに 長崎 旅行を行い、友人の日本 画家 ・ 近藤浩一路 から 永見徳太郎 を紹介されている。
1920年 (大正9年) 3月30日 、長男 芥川比呂志 、誕生。
1921年 (大正10年)3月、海外視察員として 中国 を訪れ、 北京 を訪れた折には 胡適 に会っている。胡適と 検閲 の問題などについて語り合い、7月帰国。『上海遊記』以下の紀行文を著した。
此度の旅行後から次第に心身が衰え始め、 神経衰弱 、 腸カタル などを患う。 1923年 (大正12年)には 湯河原町 へ湯治に赴いている。作品数は減っていくが、このころから所謂「保吉もの」など 私小説 的な傾向の作品が現れ、この流れは晩年の『 歯車 』『 河童 』などへとつながっていく。
1922年 (大正11年) 11月8日 、次男芥川多加志(たかし)、誕生。
1923年(大正12年) 9月1日 に 関東大震災 が発生し、これに乗じて朝鮮人が放火した毒を撒いたなどデマが飛び交うただなかで竹やりなどを武器とした 自警団 が各地に形成され 朝鮮人虐殺 を引き起こした。芥川も町会( 田端 )の自警団に、世間体もあり病身を押して参加した [ 9 ] 。随筆「大震雑記」(『大正十二年九月一日の大震に際して』収録)やアフォリズム「或自警団員の言葉」(『 侏儒の言葉 』収録)に晩の自警(夜警)が言及される。また震災後の 吉原遊廓 付近へ [ * 7 ] 芥川と一緒に死骸を見物しに出かけた 川端康成 によると、芥川は悲惨な光景のなかを快活に飛ぶように歩いていたという [ 11 ] 。『 サンデー毎日 』(1929年1月13日)に川端は、震災跡を「駿馬の快活さで飛ぶやうに歩く」震災当時の芥川の「唯一人颯爽とした姿を少しばかり憎んだ」ものであると心境を語り、芥川の何か皮肉めいた快活な言葉 [ * 8 ] を聞いたことをうろ覚えに振り返る [ 11 ] 。芥川は遺作小説『歯車』に震災から数年後の東京を描写するなかで、まるで震災当時の快活に闊歩する芥川を見つめるかのように主人公に次のように語らせた。
震災から復興した東京は、芥川が『歯車』の題名を当初『 ソドム の夜』としていたほどに エログロ 文化が盛んであった。殊に 銀座 は震災を境に女性が接待する 特殊喫茶 が進出した [ 13 ] 。
震災時の朝鮮人デマについて芥川は「善良なる市民」 [ * 9 ] はそれを信じただろうと述べている [ 14 ] 。朝鮮人は当時の日本において「 不逞鮮人 」と呼ばれ テロリスト のように恐れられていた。
また「或自警団員の言葉」においても日本社会について皮肉めいた記述をしている [ 15 ] 。震災時、朝鮮人らが虐殺されたほか、 大杉栄 ・ 伊藤野枝 夫妻らが殺害されている( 甘粕事件 )。
1924年 (大正13年)、芥川は『桃太郎』を発表した。芥川にとっての 桃太郎 観というものは、『女性改造』連載「僻見」1924(大正13)年4月1日発行第3巻第4号に見出すことができる。芥川は 上海 で 章炳麟 (章太炎先生)から聞いた話を次のように引用した。(「僕」が芥川、「予」が章炳麟)
章炳麟は、侵略者としての桃太郎と日本の 帝国主義 による 植民地 政策を重ね合わせたのであり、芥川はそれを理解して自らの作品『桃太郎』を執筆したのである [ 16 ] 。当時の売れっ子作家であり表層では国家の優等生でもあった芥川は、一方で バーナード・ショー への傾倒など 社会主義 のよき理解者であった [ 17 ] 。 1925年 (大正14年)制定の 治安維持法 に至る 法案 策定過程に関して彼ははっきりと不快感を示している。それは 1922年 (大正11年)『新潮』4月号掲載「澄江堂雑記」に次のように主張された。
甘粕事件より以前の1910年(明治43年)、芥川が一高に入学する数か月前の 5月25日 に 大逆事件 が起きている。 1911年 (明治44年) 2月1日 、 徳富蘆花 が一高で大逆事件への政府批判演説をしたことが当時の一高生たちの心を揺さぶり、一高生たちはこの演説『謀叛論』の話で持ち切りであった [ 18 ] 。芥川はこの時、一高の一年生であった。クラスメイトの菊池寛、久米正雄は演説の件を文章に書き残している [ 18 ] 。
1925年 (大正14年) 7月12日 、三男 芥川也寸志 (やすし)、誕生。
1925年 (大正14年)ごろから 文化学院 文学部講師に就任。 1926年 (大正15年)、 胃潰瘍 、神経衰弱、 不眠症 が高じ、ふたたび湯河原で療養。一方、妻・文は自身の弟・塚本八洲の療養のため 鵠沼 の実家別荘に移住。2月22日、龍之介も鵠沼の 旅館東屋 に滞在して妻子を呼び寄せる。7月20日には東屋の貸 別荘 「イ-4号」を借り、妻・文、三男・也寸志と住む。 夏休み に入り、比呂志、多加志も来る。7月下旬、親友の画家 小穴隆一 も隣接する「イ-2号」を借りて住む。この間、小品『家を借りてから』『鵠沼雑記』、さらに『点鬼簿』を脱稿。 堀辰雄 、 宇野浩二 、 小沢碧童 らの訪問を受ける。また、鵠沼の開業医、富士山(ふじ たかし)に通院する。9月20日、龍之介、文、也寸志は「イ-4号」の西側にあった「柴さんの二階家」を年末まで借りて移る。ここで鵠沼を舞台にした小品『悠々荘』を脱稿。これは、震災前に 岸田劉生 が住み、震災後に建て直されて国木田虎雄( 国木田独歩 の息子で詩人)が借りていた貸別荘を視察したときの経験がヒントのようで、龍之介一家が鵠沼に永住する意図があったとも考えられる。また、この間、 斎藤茂吉 、土屋文明、恒藤恭、川端康成、菊池寛らの訪問を受けている。 元号 が 昭和 に変わってから、妻子は 田端 に戻り、龍之介は「イ-4号」に戻った。甥の 葛巻義敏 と鎌倉で年越しをしてから田端に戻るが、鵠沼の家は4月まで借りており、時折訪れている。
1927年 (昭和2年)1月、義兄の西川豊(次姉の夫)が 放火 と 保険金詐欺 の嫌疑 [ * 10 ] をかけられて鉄道 自殺 する。このため芥川は、西川の遺した借金や家族の面倒を見なければならなかった。4月より「物語の面白さ」を主張する 谷崎潤一郎 に対して、『 文芸的な、余りに文芸的な 』で「物語の面白さ」が小説の質を決めないと反論し、戦後の物語批判的な文壇のメインストリーム を予想する文学史上有名な論争を繰り広げる。この中で芥川は、「話らしい話のない」純粋な小説の名手として「 小説の神様 」 志賀直哉 を称揚した。このころ、芥川の秘書的な役割を果たしていた平松ます子(父は平松福三郎・大本信者)は芥川から 帝国ホテル での心中を持ちかけられ、小穴隆一や文夫人等に知らせて阻止した [ 19 ] 。
7月24日 未明、『続西方の人』を書き上げたあと、致死量の 睡眠薬 を自宅で飲んで 服毒 自殺 した。 35歳没 ( 享年 36) [ 20 ] 。服用した薬には異説があり、たとえば 山崎光夫 は、芥川の 主治医 だった 下島勲 の 日記 などから 青酸カリ による服毒自殺説を主張している [ 21 ] 。同日朝、文夫人が「お父さん、よかったですね」と彼に語りかけたという話もある [ 22 ] 。 戒名 はなく俗名で葬儀が行われたが [ 23 ] 、後に懿文院龍之介日崇居士。墓所は、東京都 豊島区 巣鴨 の 慈眼寺 。
作品は、 短編小説 が多く知られている。しかし初期の作品には、西洋の文学を和訳したものも存在する(『バルタザアル』など)。英文科を出た芥川は、その文章構成の仕方も英文学的であるといわれている。翻訳文学的でもある論理的に整理された簡潔・平明な筆致に特徴がある。
短編の傑作を残した一方で、長編を物にすることはできなかった(未完小説として『 邪宗門 』『路上』がある)。また、生活と芸術は相反するものだと考え、生活と芸術を切り離すという理想のもとに作品を執筆したといわれる。他の作家に比べ表現やとらえ方が生々しい。晩年には志賀直哉の「話らしい話のない」心境小説を肯定し、それまでのストーリー性のある自己の文学を完全否定する(その際の作品に『 蜃気楼 』が挙げられる)。
『 杜子春 』など古典を参考にしたものや(原話は唐の小説『杜子春伝』)、 鈴木三重吉 が創刊した『 赤い鳥 』に発表されたものなど児童向け作品も多い。一般的には、 キリシタン 物や 平安朝 を舞台とした 王朝 物などに分類される。また、古典(説話文学)から構想を得た作品も多い。例えば、『 羅生門 』や『 鼻 』『 芋粥 』などは『 今昔物語集 』を、『 地獄変 』などは『 宇治拾遺物語 』を題材としている。また アフォリズム の制作も得意としており、漢文などにも通じていた。
反軍的な自説を主張しており、ことに『河童』『侏儒の言葉』などの晩年の作品にはそのような傾向が強い。当時の 軍人 の横柄な様子を「小児のようだ」と自著で酷評したほどである [ 24 ] [ 25 ] 。しかし、当時は軍が著作物の 検閲 をするのが通常であったため、この検閲によって訂正・加筆・削除を余儀なくされた箇所も作品内に多数存在する。その一方で、 海軍 に対してはある程度の好意を抱いていたようで、 陸軍 のあまりの狭量に腐っていた 陸軍幼年学校 教官の 豊島与志雄 を「いい職場があるから」と海軍機関学校に招き、豊島は フランス語 嘱託教官として勤務した [ 26 ] 。 内田百閒 も芥川の推薦で ドイツ語 嘱託教官となっており、のちに内田は『竹杖記』( 1934年 (昭和9年))で芥川が講師の人選や交渉などに一定の役割を担っていたことを記している [ 27 ] 。
自著にて 天照大神 を登場させる際、別名の「大日 孁 貴」(おおひるめのむち)を用いた。これは「天照大神」という呼称では 皇祖神 をそのまま文中に登場させてしまうことになるため、 太陽神 、それも 自然神 という性格づけで「大日 孁 貴」を用いなければならなかったためである。
煙草 が大好きで、1日に180本も吸っていたという。この煙草について『海のほとり』『京都日記』『玄鶴山房』に 敷島 銘柄の煙草が登場した。
芥川の作風はしばしば概括的に「芸術至上主義」と要約されることがあるが、海老井英次は「芥川の生涯にわたる芸術至上主義についての(本人の)言及のほとんどが、それに対しての否定の表明であるか皮肉に限られている」という [ 28 ] 。吉岡由紀彦によれば芥川の射程は「芸術の功利性」を否定し「芸術的価値」そのものを求める態度であり「芸術至上主義」に含意された繁多な語義を前提としたとしても「芸術至上主義」の圏内にいたといえる、とする [ 29 ] 。
芥川龍之介の作風は、初期と晩年でかなり違うといわれており、初期の作品群は「新理知派」(理知主義・ 新現実主義 )と分類されることがあり、『戯作三昧』から『枯野抄』までの中期作品は「芸術主義」、1920年(大正9年)以降は芸術主義の態度が修正された作風となり、中国視察以降は健康の衰えが著しくなり「懐疑的」(懐疑主義)厭世的となり、創作の行き詰まりを自覚するにいたり私小説的作品まで試み、晩年の諸作品は近代個人主義に立脚した芸術の、芥川なりの帰結が主題となる [ 30 ] 。
説話文学を典拠とした、『羅生門』『鼻』『芋粥』などの歴史物、加えて キリシタン 物が有名である。 日夏耿之介 は初期の作品を「非常によい」と評価している。歴史物では、人間の内面、特に エゴイズム を描き出したものが多い。
芸術至上主義 的な面が全面に出た『 地獄変 』などを書き、長編『 邪宗門 』に挑んでいた。
自殺を考えていたのか、自分のこれまでの人生を見直したり、生死を取り上げたりした作品が多く見られる。初期より晩年の方を高く評価する見解も示されている。『一塊の土』など、これまでと比べ現代の話を書くようになるが、台頭する プロレタリア 文壇に ブルジョワ 作家と攻撃されることとなる。この頃から、主人公の一人称を「僕」とする私小説が増え、告白的な自伝も書き始める(『大導寺信輔の半生』『点鬼簿』『或阿呆の一生』など)。晩年の代表作『 河童 』は、河童の世界を描くことで人間社会を痛烈に批判しており、当時の人々に問題を提起した。
『 歯車 』の内容から、晩年には自分自身の ドッペルゲンガー (Doppelgänger)を見たのではないか、また、 片頭痛 あるいはその前兆症状である 閃輝暗点 を患っていたのではないか、という説がある。
「水洟(みづぱな)や 鼻の先だけ 暮れ残る」と、自殺直前に書いた 色紙 の一句が 辞世 とされる。
1927年 (昭和2年) 7月24日 、雨の降りしきるなか、田端の自室で芥川龍之介は「ぼんやりした不安」を動機として 服毒 自殺 を行い、社会に衝撃を与えた。
午前6時頃、芥川が布団の中で苦悶している姿を夫人が気づき、かかりつけの医師を呼んだ時には既に絶命している状況にあった [ 31 ] 。死の数日前に芥川を訪ねた同じ漱石門下で親友の 内田百閒 によれば、芥川はその時点でもう大量の 睡眠薬 でべろべろになっており、起きたと思ったらまた眠っているという状態だったという。すでに自殺を決意し、体を睡眠薬に徐々に慣らしていたのだろうと推測される。一方で、自殺の直前には身辺の者に自殺をほのめかす言動を多く残しており、実際には早期に発見されることを望んだ狂言自殺で、たまたま発見が遅れたために死亡したとする説がある。また、死後に見つかり、 久米正雄 に宛てたとされる 遺書 「 或旧友へ送る手記 [ 32 ] 」で芥川は自身の「ぼんやりした不安を解剖」して自殺へ至る道程(動機、手段、場所)について具体的に書き記している。その中に「僕大。僕のしみじみとした心もちになつて マインレンデル を読んだのもこの間である。(中略)…僕は内心自殺することに定め、あらゆる機会を利用してこの薬品( バルビツール酸系 ヴェロナール およびジャール/ dial )を手に入れようとした」とあることから、記述を信頼すれば計画的に自殺を企てていた節も窺える。手記最終段落にある「末期(まつご)の目」という言葉に 川端康成 が着目し、『 末期の眼 』と題して(当初の題は『小説作法』)随筆を書いている。手記の最後に芥川は エンペドクレス の伝記にも言及し「みずからを神としたい欲望」についても付記している。
遺書として、妻・ 文 に宛てた手紙、 菊池寛 、 小穴隆一 に宛てた手紙がある [ 33 ] 。芥川が自殺の動機として記した「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」との言葉は、今日一般的にも有名であるが、自殺直前の芥川の厭世的あるいは「病」的な心境は『 河童 』を初めとする晩年の作品群に明確に表現されており、「ぼんやりした不安」の一言のみから芥川の自殺の動機を考えるべきではないともいえる。芥川命日は小説『河童』から取って河童忌と称される。
死の直前である7月初め、菊池寛に会うため二度 文藝春秋社 を訪れているが会うことができなかった。社員が菊池に芥川が訪れたことを報告せず、生前に菊池が芥川を訪ねることもなかった [ 34 ] 。
死の前日、芥川は近所に住む 室生犀星 を訪ねたが、犀星は雑誌の取材のため 上野 に出かけており、留守であった。犀星は後年まで「もし私が外出しなかったら、芥川くんの話を聞き、自殺を思いとどまらせたかった」と、悔やんでいたという。また、死の直前に
「 橋の上ゆ胡瓜なくれは水ひひきすなはち見ゆる禿の頭 」
芥川の自殺報道の直後からその死にショックを受けたと思われる若者たちの 後追い自殺が相次ぎ 、「芥川宗」とも呼ばれた [ 35 ] 。
死の8年後、親友で文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文学賞「 芥川龍之介賞 」(芥川賞)を設けた。芥川賞は 直木賞 と共に日本でもっとも有名な文学賞として現在まで続いている。
芥川の死は関東大震災から数年経ち 大正天皇 崩御後、25歳の 皇太子裕仁親王 が 現人神 として 天皇 に即位し昭和が始まって間もなくのことであった。 川端康成 は震災と芥川の死を関連付けて『サンデー毎日』に次のように語った [ 36 ] 。
菊池寛は第一高等学校での同級生以来の付き合いであり、友人総代として 弔辞 を読んでいる。菊池は読み上げている最中に感極まって慟哭、しばらくの間、霊前に泣き伏せてしまった [ 37 ] 。
君が自ら擇み 自ら決したる死について 我等 何をか云はんや たゞ我等は 君が死面に 平和なる微光の漂へるを見て 甚だ安心したり 友よ 安らかに眠れ! 君が夫人 賢なれば よく遺兒を養ふに堪ふるべく 我等 亦 微力を致して 君が眠の いやが上に安らかならん事に努むべし たゞ悲しきは 君去りて 我等が身辺 とみに蕭篠たるを如何せん
なお、芥川の死について、菊池寛は「芥川の事ども」という文章を残している [ 38 ] 。
芥川の命日・7月24日は河童忌と呼ばれる。当初は、遺族と生前親交のあった文学者たちが集まる法要だったが、1930年(昭和5年)の四回忌から「河童忌記念帖」として 文藝春秋 誌上で紹介され、この呼び名が定着した。以後17回忌まで毎年行われていたが、戦争のため中断する。戦後、再開されたが詳しい記録は残っていない [ 39 ] 。
1976年(昭和51年)の50回忌は巣鴨の慈眼寺で墓前祭、丸の内の 東京会館 で偲ぶ会が催された。この日は第75回 芥川賞 の贈呈式で、受賞した 村上龍 も花を手向けにきた [ 39 ] 。没後90年にあたる2017年(平成29年)からは 田端文士村記念館 が世話役となり、「河童忌」イベントを開催している [ 40 ] 。
芥川はいわゆる 田端文士村 の一員であった。地元の 東京都北区 は、芥川旧居跡地の一部を購入し「芥川龍之介記念館」(仮称)を2023年に開館する計画を2018年6月に発表した [ 41 ] 。その後、 新型コロナウイルス の影響で計画が大幅に遅れ [ 42 ] 、現在は クラウドファンディング を活用しながら2026年度の開館を目指している [ 42 ] [ 43 ] 。
大の風呂嫌いで、めったに入浴しなかった。入ったとしても、手ぬぐいは持参しなかったという。
大の犬嫌いだったが、晩年、死の直前になってからは、なぜか犬をまったく怖がらなくなった。犬を主人公とする児童文学『白』を 改造社 出版の雑誌『女性改造』(『 改造 』の姉妹誌)に寄稿したのもこの時期である。
『文芸家たらんとする諸君に与ふ』という小文において「文芸家たらんとする中学生は、須らく 数学 を学ぶ事勤勉なるべし。然らずんばその頭脳常に理路を辿る事迂にして、到底一人前の文芸家にならざるものと覚悟せよ。文芸家たらんとする中学生は、須らく 体操 を学ぶこと勤勉なるべし。然らずんばその体格常に薄弱にして、到底生涯の大業を成就せざるものと覚悟せよ」と述べ、数学や体操を勤勉に学ばなければよい文芸家にはなれないと主張している [ 44 ] 。ただし、同じ文の中で「こは予自身の経験に基く言にして、予亦然く中学時代を有効に経過せざりしを悲しみつつあるものなり」とも述べていることから、片野善一郎は「中学時代に一生懸命に勉強しなかったことを後悔しているくらいであるから、芥川は数学はあまり得意でなかったのかもしれない」と推察している [ 44 ] 。
黒澤明 の『 羅生門 』(日本映画初の ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞)は芥川の『藪の中』『 羅生門 』から題材を借りている。
俳人 としては 高浜虚子 の『 ホトトギス 』や 河東碧梧桐 の『 海紅 』に拠って [ 45 ] 『澄江堂句集』を残している。また詩、 短歌 、 旋頭歌 などの作品も残している。
家紋 は「 五七桐 」である。
源義仲 について、東京府立第三中学校在学時に著した『木曾義仲論』の中で、直情径行な「木曾山間の野人」だが同時に「赤誠の人」「熱情の人」「革命の先動者」と評し、最後に「彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也」と総括して、その人となりを敬愛した [ 46 ] [ 47 ] 。
妻の追想記によれば、関東大震災発生の折、芥川龍之介は激しい揺れに驚き、ひとまず身の安全を確保しようと家の外へ避難したという。しかしその際、家の中にはまだ幼い子どもが取り残されていた。やがて次男の多加志を抱えて避難してきた妻と合流すると、妻は「赤ん坊が寝ているのを知っていて、自分ばかり先に逃げるとは、どんな考えですか」と厳しく詰問されたと伝えられている。
この記事では以前、芥川は非常に速く本を読むことができたとされていた。以下は以前の記事に書かれていた芥川の速読の逸話であるが、正確な真偽は曖昧である。
・同人雑誌を渡されたとき、七ページの文章をパラパラとめくっただけで全部読んだ [ 48 ] 。
・邦文の書物や雑誌なら2,3人と会話しながら読むことができた。しかし誤解されたり失敬に思われるのを避けるため親しくない人の前ではしなかった [ 48 ] 。
・英文の速読もできた。大阪へ行く時、分厚い英文の本を4,5冊手提げの中に芥川は入れていた。それを汽車内で読んでしまい、谷崎潤一郎の本を借りていた [ 48 ] 。
・下島勲が、どのくらいの速度で本を読めるのかと芥川に聞いた時、普通の英文学書なら 一日1200~1300ページ は楽と答えた。仮に一日1200ページの10時間とすれば、1時間120ページ、1分間2ページとなるわけである [ 48 ] 。
師であり、自分を見出してくれた 夏目漱石 を終生尊敬し続けた。いくつかの作品に「先生」という敬称で登場し、遺作である『 歯車 』、『 或阿呆の一生 』でも言及している。夏目漱石の 葬儀 の際に 江口渙 とともに受付を務め、弔問にきた 森鷗外 の名刺を受け取っている。妻へ宛てた遺書の中で [ 33 ] 、自作の出版権については「 岩波茂雄 氏( 岩波書店 )に譲与すべし。新潮社との契約は廃棄す」と記している。この理由についても記されており、「夏目先生を愛するが故に先生と出版書肆を同じにしたい」と希望した。
避暑 先の 軽井沢 で アイルランド文学 翻訳者 である 片山広子 と出会う。芥川晩年の作品『 或阿呆の一生 』の37章で「才力の上にも格闘できる女性」と記し、『相聞』で「君」と歌われたのは片山広子の事だと言われていることから、のちに片山は芥川最後の恋人と呼ばれるようになった(あくまでも プラトニック・ラブ であったとされる)。なお芥川が軽井沢を訪れたのは、1924年と翌年の2回で、いずれも夏の約1ヶ月間を 旧軽井沢 の つるや旅館 で過ごし、 室生犀星 、 堀辰雄 、 萩原朔太郎 らも同宿し交友を深めた。1925年に書いた草稿「軽井沢で」に、芥川は軽井沢について、「さやうなら。 手風琴 の町、さやうなら僕の 抒情詩 時代」と記している。
佐藤春夫 とは友人で、芥川から佐藤への手紙が残っている [ 49 ] 。1926年に送られたとみられる佐藤宛の手紙が、遺族により 実践女子大学 に寄贈されており、芥川の随筆集の表紙を描いてくれた感謝のほか、小説「妖婆」を失敗作だと断じた佐藤の論評について「初めて読んだ時には不快だつたが、今は平気でよめる」と記している [ 49 ] 。
バルタザアル 1914年(翻訳、原作 アナトール・フランス )
「ケルトの薄明」より 1914年(翻訳、原作 ウィリアム・バトラー・イェイツ )
春の心臓 1914年(翻訳、原作ウィリアム・バトラー・イェイツ)
クラリモンド 1914年(翻訳、原作 テオフィル・ゴーティエ )
羅生門 1915年 / 1917年 阿蘭陀書房 000000570013
煙草と悪魔 1916年 / 1917年11月 新潮社 NCID BN07392902
戯作三昧 1917年 / 1921年9月 春陽堂 NCID BN07393993
蜘蛛の糸 1918年 / 『傀儡師』1919年 新潮社 000000574762
邪宗門 1918年 / 1922年 春陽堂 000000588150
犬と笛 1919年 / 『蜘蛛の糸』1932年 春陽堂 000000807842
開化の良人 1919年 / 『影灯籠』1920年 春陽堂 000000577976
きりしとほろ上人伝 1919年
舞踏会 1920年 / 『夜来の花』1921年 新潮社 000000584784
藪の中 1922年 / 『将軍』1922年3月 新潮社 NCID BN07372982
神神の微笑 1922年 / 『春服』1923月 春陽堂 NCID BN07353864
魚河岸 1922年 / 『黄雀風』1924年 新潮社 000000594561
仙人 1922年 / 『芥川龍之介全集』(第3巻)1927年 - 1929年 岩波書店 NCID BN06949315
侏儒の言葉 1923年 - 1927年 / 1927年12月 文藝春秋社 NCID BN07354211
漱石山房の冬 1923年 / 『百艸』1924年 新潮社 000000587968
桃太郎 1924年 / 『白葡萄』1925年 春陽堂 000000597802
文芸的な、余りに文芸的な 1927年
興文社と文藝春秋社による『小学生全集』88巻の一環として刊行
『アリス物語』 菊池寛との共訳 1927年11月 興文社 NCID BN06414566
『ピーターパン』 菊池寛との共訳 1929年 興文社 000000812014
実父・新原敏三(1850年 - 1919年) - 玖珂郡生見村(現・ 美和町 (山口県) )に生まれ、長州藩の農民兵となり、 四境戦争 では大林源次の変名で 御楯隊 に属し負傷、1869年の脱退騒動に巻込まれ、 萩藩 の椿正治の娘と結婚し椿源治と改名するが離婚して1875年頃上京、名を本名に戻す [ 50 ] 。 勧農局 下総御料牧場 に入所し、1882年に 渋沢栄一 の箱根仙石原の牧場「耕牧舎」に入る [ 51 ] 。1883年に本所小泉町(現 墨田区 両国 )の 士族 芥川俊清の三女・フク(1860-1912)と再婚、京橋区入船町の牛乳販売店「耕牧舎」の支配人になり、事業を発展させ、渋沢から新宿の牧場を引き受け成功した [ 50 ] [ 52 ] 。妻のフクが発狂したため、フクの妹フユが家の手伝いに入り、1899年にフユとの間に得二を儲け、1904年にフユと正式に再婚 [ 52 ] 。明治末頃から牛乳事業が停滞し、1918年には牧場を手放した [ 52 ] 。同跡地は遊郭となり、現在の 新宿二丁目 界隈となる。1919年に スペインかぜ で死去。
養父・芥川道章(1849年 - 1928年) - 実母フクの兄。東京府役人。乳児の龍之介を預かり姉フキらと養育、実父の敏三と揉めたが1904年に龍之介を正式に養子とする [ 53 ] 。妻のトモ(1857年 - 1937年)は 細木香以 の姪 [ 53 ] 。
芥川文 - 海軍 少佐 ・ 塚本善五郎 の娘
芥川比呂志 (長男) - 俳優
芥川多加志(次男) - もっとも文学志向が強かったが、東京外国語学校仏語部在学中に召集され、 1945年 (昭和20年)4月13日にビルマ(現・ ミャンマー )で戦死 [ 54 ] 。
芥川也寸志 (三男) - 作曲家
芥川耿子 (比呂志三女) - エッセイスト、詩人、童話作家
芥川貴之志 (也寸志長男)- ファッションデザイナー [ 55 ]
芥川麻実子 (也寸志長女)- メディアコーディネーター
子供の名前は、それぞれ親友の 菊池寛 の「寛」(比呂志)、 小穴隆一 の「隆」(多加志)、 恒藤恭 の「恭」(也寸志)をもらって漢字を替えてつけたものである。
芥川には笑顔の写真がほとんど存在しないが、晩年のフィルム映像では、息子たちと笑顔を見せる芥川の姿が記録されている。このことから子煩悩であったことがうかがえる。なお、この映像では比呂志と多加志は映っているが、也寸志はこのとき家の中で寝ていたため映っていない。
也寸志の回想によれば、父の遺品には SPレコード があり、そのうち多くを占めていたのは ストラヴィンスキー だったという。『 火の鳥 』(組曲版)と『 ペトルーシュカ 』を所有していたというが、演奏者などの詳細は不明である。
葛巻義敏 - 小説家、文芸評論家
芥川瑠璃子 - 比呂志の妻、随筆家
長姉・新原はつ(1885年 - 1891年4月5日)
↑ 長女の急死が原因であったと推測されることがある。
1 2 3 4 5 6 7 クラスは一年三之組。第一部乙類(英文科)は3年間この1クラスのみ。
↑ 1892年生まれ。1915年に陸軍軍人と結婚。1973年死去。
↑ 芥川は大学院の退学届けの提出が期限切れだったため30円を請求され、このような大金の持ち合わせがない芥川は自ら除名処分を志願した(芥川龍之介『その頃の赤門生活』より)。
↑ 防衛省防衛研究所図書館史料閲覧室が所蔵する海軍記録『職員進退録』に、芥川の自筆履歴書が残る。2010年現在、複写した履歴書の写真が同室に展示されている。個人情報なので、 アジア歴史資料センター でのネット公開の対象外である。
↑ 震災の大火災を逃れて数十人から数百人以上の吉原 遊女 たちが吉原の弁天池に飛び込んで溺死している [ 10 ] 。
↑ 芥川の快活な皮肉は例えば、震災当時の自警団は異端の人々を排斥する殺気立った集団であるにもかかわらず「或自警団員の言葉」には「夜もすがら気楽に警戒しよう」と記述されている。 近藤富枝 『田端文士村』(中央公論新社、1983年)によれば芥川が参加した自警団は次第にであるが親睦会のようになり、「或自警団員の言葉」にある「さあ、この籐の長椅子に寝ころび」の言葉通りに「龍之介は籐椅子をもち出してそこで寝そべり、…龍之介の話術にひきこまれて、夜警に出るのが楽しみになったくらいである。」という [ 12 ] 。
↑ ここでいう「善良なる市民」とはデマに操られる無知な者といった意味であると考えられる [ 12 ] 。
↑ 西川は 弁護士 であったが偽証教唆の罪で失権し、 刑務所 に 収監 され、出所後に自宅が半焼した際に直前に多額の保険金をかけていたことや家屋の2階押入の二箇所からアルコール瓶が発見されたことから保険金詐欺目的の放火が疑われていた。
↑ 上田正昭 、 津田秀夫 、 永原慶二 、 藤井松一 、 藤原彰 、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 19頁。
↑ 『第一高等学校一覧 明治43-44年』(入学時)、132頁 ^ 『第一高等学校一覧 明治44-45年』(2年進学時)、126頁 ^ 『第一高等学校一覧 大正元年-2年』(3年進学時)、118頁 ^ 『第一高等学校一覧 大正2年-3年』(卒業時)、310頁
↑ 神の罠 , 38.178頁
↑ 下川耿史 家庭総合研究会 編『明治・大正家庭史年表:1868→1925』河出書房新社、2000年、414頁。 ISBN 4-309-22361-3 。
↑ 関口 1992 , p. 213
↑ 芥川龍之介 「 入社の辞 」、1919年3月。
↑ 海軍兵学校物語 , p. 73
↑ 関口 2010 , p. 52
↑ “吉原に伝わる「遊女600人が死亡」の逸話、真相は 慰霊の法要に行ってみると…” . 東京新聞. 2023年9月2日.
1 2 川端康成 「芥川龍之介氏と吉原」
1 2 児玉千尋「 関東大震災と文豪 : 成蹊大学図書館の展示から 」『成蹊国文』第47号、成蹊大学文学部日本文学科、56-86頁、2014年3月15日。 オリジナル の2016年9月1日時点におけるアーカイブ 。 https://web.archive.org/web/20160901120846/http://repository.seikei.ac.jp/dspace/handle/10928/526 。
↑ “「カフェー=エロ」の時代があった?!純喫茶の歴史を深堀りしたら「不純なカフェー」に辿り着いた” . 和樂web . 2021年3月3日.
↑ 「善良なる市民」芥川龍之介は“流言蜚語を鵜呑み”にし菊池寛に一喝される|関東大震災|畑中章宏 - 幻冬舎plus
↑ 川端 2015 , p. 58
↑ 渡部 2017 , p. 46
↑ 関口 2010 , p. 54
1 2 関口 2010 , pp. 44–47
↑ [「平松ます子」『芥川龍之介新辞典』], 511頁
↑ 山崎 2008 , pp. 7–13.
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↑ 芥川文、中野妙子記 『追想芥川龍之介』 中公文庫、1981年、p.170
↑ 戒名はなく墓碑も俗名『東京日日新聞』昭和2年7月26日夕刊(『昭和ニュース事典第2巻 昭和元年-昭和3年』本編p3 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
↑ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1172662/15 『侏儒の言葉』芥川龍之介「小兒」「武器」1939年版(検閲による削除あり)国立国会図書館所蔵}
↑ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1180947/16 『侏儒の言葉』芥川龍之介「小兒」「武器」1927年版(検閲による削除なし)国立国会図書館所蔵}
↑ 神の罠 , 40.177頁
↑ 神の罠 , 178-179頁
↑ 「芸術への覚醒-芥川龍之介と芸術至上主義㈠」(大分工専研究報告、1971.11)
↑ 吉岡由紀彦「芥川龍之介と芸術至上主義」(論及日本文学、1988.5) P.32、P.P.42-43
↑ 小学館日本大百科全書「芥川龍之介」海老井英次
↑ 「ぼんやりとした不安」手記残し自殺『東京日日新聞』昭和2年7月25日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和元年-昭和3年』本編p3 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
↑ 芥川龍之介 「 或旧友へ送る手記 」、1927年7月。
1 2 『遺書』:新字旧仮名 - 青空文庫 ※掲載順序は、小穴隆一宛、子ども宛、妻宛、菊池寛宛。
↑ 久世番子『よちよち文藝部』 文藝春秋 、2012年10月、152-153頁
↑ 『芸能人と文学賞 〈文豪アイドル〉芥川から〈文藝芸人〉又吉へ』川口則弘、ベストセラーズ, 2017、「芥川のブロマイドが芥川賞の根源にあった--「作家」というアイドルの誕生」の章
↑ 十重田 2013 , p. 172
↑ 谷中斎場で葬儀、霊前で慟哭した菊池寛『東京日日新聞』昭和2年7月28日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和元年-昭和3年』本編p3 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
↑ 菊池寛 「 芥川の事ども 」、『文藝春秋』1927年9月号。
1 2 木口直子(田端文士村記念館学芸員)「芥川龍之介没後九十年”河童忌”の新たな幕開けに添えて」『文藝別冊 芥川龍之介』河出書房新社、2017年、201-208頁。
↑ “ イベント一覧 ”. 田端文士村記念館 北区文化振興財団. 2019年2月4日閲覧。
↑ 「芥川龍之介記念館」整備/北区が旧居跡地購入へ 書斎再現や資料展示 『毎日新聞』朝刊2018年6月7日(東京面)2018年6月7日閲覧。
1 2 「 芥川龍之介記念館、26年の開館めざす 78歳孫が語る期待と河童忌 」『朝日新聞』2023年7月22日。2025年4月25日閲覧。
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1 2 片野 2006 , p. 15-16
↑ 芥川龍之介 「 わが俳諧修業 」
↑ 『木曽義仲論』:新字旧仮名 - 青空文庫
↑ “ 芥川龍之介が3万字論文書いた「木曽義仲」の魅力 松尾芭蕉も愛惜した猛将の知られざる実像 ”. 歴史 . 東洋経済オンライン (2022年3月21日). 2024年1月21日閲覧。
1 2 3 4 『芥川追想』岩波書店、379-381頁。
1 2 “ 芥川の内面伝える手紙発見 佐藤春夫宛て、深い交友 ”. 共同通信. 2022年8月12日閲覧。
1 2 奇兵隊に新原敏三という人がいて、その人は芥川龍之介の父親だと講演で聞いたのだが、本当か レファレンス協同データベース、2020年08月04日
↑ 芥川龍之介の文学碑 田村悌夫、山口県立大学 郷土文学資料センターだより28号、2017年3月31日
1 2 3 に 芥川龍之介人物録
↑ 天満ふさこ『「星座」になった人―芥川龍之介次男・多加志の青春』 新潮社 、2007年6月。 ISBN 978-4103049715 。
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渡部麻実「 芥川龍之介『桃太郞』 : 天才と圧制者 」『日本女子大学紀要. 文学部』第66号、日本女子大、2016年、45-58頁、 ISSN 0288-3031 、 NAID 120006030914 、 NCID AN00192893 。
川端康成「芥川龍之介氏と吉原」『 サンデー毎日 』第8年3号、 毎日新聞出版 、1929年1月13日。
十重田裕一 「 横光利一と川端康成の関東大震災 : 被災した作家の体験と創作 」『早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌』第1巻、早稲田大学総合人文科学研究センター、2013年10月、171-175頁、 ISSN 2187-8307 、 NAID 120005352457 。
山崎光夫 『藪の中の家 芥川自死の謎を解く』 中央公論新社 、2008年7月。 ISBN 978-4-12-205093-8 。
ストレンジャー〜上海の芥川龍之介〜
自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧
芥川龍之介 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館
『 芥川龍之介 』 - コトバンク
『 芥川竜之介 』 - コトバンク
芥川 竜之介:作家別作品リスト - 青空文庫
『芥川竜之介論 ――芸術家としての彼を論ず――』:旧字旧仮名 - 青空文庫 - 堀辰雄 著
二つの繪 芥川龍之介の囘想 - 小穴隆一(青空文庫)
第8章 文芸家(2) | あの人の直筆 - 国立国会図書館
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芥川龍之介 - 小説 - 原作映画作品
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